被爆80年にあたり日本被団協・日本原水協・原水禁3者が共同アピール発表


 被爆80年を迎えるにあたり、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)、原水爆禁止日本協議会(日本原水協)、原水爆禁止日本国民会議(原水禁)の3者は7月23日、都内で記者会見を開き、共同アピール「被爆80年を迎えるにあたって ヒロシマ・ナガサキを受け継ぎ、広げる国民的なとりくみをよびかけます」を発表しました。
 3団体の共同アピールは初めてとなります。はじめに田中熙巳日本被団協代表委員が趣旨を説明。「被爆80年を迎える年であり、昨年日本被団協がノーベル平和賞を受賞するという非常に画期的なときに、いままで一緒にやれなかった原水協と原水禁という大きな組織が力を合わせてこれからやっていこうということは被団協として嬉しい」と述べたのに続き、濱住治郎日本被団協事務局長が共同アピールを読み上げました。

 日本原水協の安井正和事務局長は「原水爆禁止運動にとって大変重要」。土田弥生事務局次長は「核戦争の瀬戸際と言われる現在の情勢で共同が必要だと準備してきた」とそれぞれ発言しました。原水禁の谷雅志事務局長は「次世代継承の前に現世代の責任のひとつとして地域の皆さんの追い風になればという思いだ」と語りました。


 
被爆80年を迎えるにあたって
ヒロシマ・ナガサキを受け継ぎ、広げる
国民的なとりくみをよびかけます




 1945年8月6日広島・8月9日長崎。アメリカが人類史上初めて投下した原子爆弾は、一瞬にして多くの尊い命を奪い、生活、文化、環境を含めたすべてを破壊しつくしました。そして、今日まで様々な被害に苦しむ被爆者を生み出しました。このような惨劇を世界のいかなる地にもくりかえさせぬために、そして、核兵器廃絶を実現するために、私たちは被爆80年にあたって、ヒロシマ・ナガサキの実相を受け継ぎ、広げる国民的なとりくみを訴えます。

 2024年、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)がノーベル平和賞を受賞しました。凄惨な被爆の実相を、世界各地で訴え続け、戦争での核兵器使用を阻む最も大きな力となってきたことが評価されたものです。一方今日、核兵器使用の危険と「核抑止」への依存が強まるなど、「瀬戸際」とも言われる危機的な状況にあります。
 ウクライナ侵攻に際してロシアの核兵器使用の威嚇、パレスチナ・ガザ地区へのイスラエルのジェノサイド、さらに、イスラエルとアメリカによるイランの核関連施設(ウラン濃縮工場)への先制攻撃など、核保有国による国連憲章を踏みにじる、許しがたい蛮行が行われています。核兵器不拡散条約(NPT)体制による核軍縮は遅々として進まず、核兵器保有5大国の責任はいよいよ重大です。
 しかし、原水爆禁止を求める被爆者を先頭とする市民運動と国際社会の大きなうねりは、核兵器禁止条約(TPNW)を生み出しました。これは、核兵器の非人道性を訴えてきた被爆者や核実験被害者をはじめ世界の人びとが地道に積み重ねてきた成果です。同時にそれは今日、激動の時代の「希望の光」となっています。この条約を力に、危機を打開し、「核兵器のない世界」へと前進しなければなりません。アメリカやロシアをはじめ核兵器を持つ9カ国は、TPNWの発効に力を尽くしたすべての市民と国々の声に真摯に向き合い、核兵器廃絶を決断すべきです。
 唯一の戦争被爆国である日本政府はいまだTPNWに署名・批准しようとはしません。核保有国と非核保有国の「橋渡し」を担うとしていますが、TPNWに参加しない日本への国際社会の信頼は低く、実効性のある責任を果たすこととは程遠い状況にあります。アメリカの「核の傘」から脱却し、日本はすみやかに核兵器禁止条約に署名・批准すべきです。

 原爆被害は戦争をひきおこした日本政府が償わなければなりません。しかし、政府は放射線被害に限定した対策だけに終始し、何十万人という死者への補償を拒んできました。被爆者が国の償いを求めるのは、戦争と核兵器使用の過ちを繰り返さないという決意に立ったものです。国家補償の実現は、被爆者のみならず、すべての戦争被害者、そして日本国民の課題でもあります。
 ビキニ水爆被災を契機に原水爆禁止運動が広がってから71年。来年は日本被団協結成70周年です。被爆者が世界の注目をあつめる一方、核使用の危機が高まる今日、日本の運動の役割はますます大きくなっています。その責任をはたすためにも、思想、信条、あらゆる立場の違いをこえて、被爆の実相を受け継ぎ、核兵器の非人道性を、日本と世界で訴えていくことが、なによりも重要となっています。それは被爆者のみならず、今と未来に生きる者の責務です。地域、学園、職場で、様々な市民の運動、分野や階層で、被爆の実相を広げる行動を全国でくりひろげることをよびかけます。世界の「ヒバクシャ」とも連帯して、私たちはその先頭に立ちます。
2025年7月23
日本原水爆被害者団体協議会
(日本被団協)
原水爆禁止日本協議会
(日本原水協)
原水爆禁止日本国民会議
(原水禁)

被爆80年 「被爆者とともに、核兵器のない平和で公正な世界をー人類と地球の未来のために」
原水爆禁止2025年世界大会



国際会議

 8月3日(土)〜4日(日)、広島JAビルで開催されました。日本宗平協から森修覚事務局長、小野文珖代表理事が参加しました。
 主催者あいさつは野口邦和(世界大会実行委員会運営委員会共同代表)が行いました。
 第1セッション
  被爆者の声を世界に

 ヒロシマ・ナガサキの被爆者、核実験被害者の証言、専門家の研究成果などから核兵器の非人道性についての理解と認識を深める。その国際的な普及を発展させるための課題を明らかにする。被害者への補償と支援、環境修復にむけた運動をどう発展させるか討論しました。
 日本被団協の金本弘(日本原水爆被害者団体協議会代表理事)、広島被爆者の佐久間邦彦(広島県原爆被害者団体協議会理事長)、長崎の大矢正人(長崎総合科学大学名誉教授)、朝鮮半島被爆者の朴貞順(韓国原爆被害者協会・プサン支部)が発言しました。

第2セッション
核兵器のない平和で公正な世界を

 核兵器廃絶を実現する展望を明らかにする。核兵器禁止条約を力にしたとりくみ、核兵器の使用・威嚇の禁止、非核地帯の強化・創設。「核抑止力」論の克服。2026年のNPT再検討会議、核兵器禁止条約・再検討会議などにむけて、国連、諸国政府と市民社会の共同をどう発展させるか討論しました。
 アメリカのジョゼフ・ガーソン(平和・軍縮・共通安全保障キャンペーン議長)、イギリスのキャロライン・ルーカス(核軍縮キャンペーン(CND)副会長、元緑の党国会議員),フランスnoロラン・ニベ(フランス平和運動全国書記),韓国のイ・ジュンキュ(フォーラム平和共感研究員)日本の安井正和(原水爆禁止日本協議会事務局長)が発言しました。

第3セッション
市民社会の連帯と運動交流

 核兵器のない世界のための国際共同行動。平和の諸課題(戦争、軍拡、外国軍基地など)での運動との共同。各分野(エネルギーと環境、脱原発、持続可能な世界、貧困と格差、人権、ジェンダー平等など)の運動との連帯について討論しました。
 アメリカのアン・ライト(平和のための退役軍人会)、ヨーロッパのカースティン・ベルゲア(スウェーデン平和仲裁協会議長/会長)、中東:アブデル・モネイム(元エジプト外務次官/ポート=サイド大学教授)、アジア・太平洋の(ベトナム平和委員会)、国際団体のコラソン・ファブロス(国際平和ビューロー共同会長)が発言しました。

 4日は第3セッションの続きと閉会総会でした。
 起草委員長から原水爆禁止2025年世界大会-国際会議宣言案「被爆80いまこそ決断と行動を」が提案されました。
 しかし、案のパレスチナの未来について、国家創設を求めるべきとの意見が出され、起草委員会に諮って認める提案が広島集会で出されました。
 
 森修覚が発言しました。

 日本宗平協がかかわるアジア仏教徒平和会議から9月21日、モンゴルで開く平和会議で被爆者の体験を話してほしいと被団協あてに届き、被団協代表委員の田中重光さん派遣が決まり、宗平協から小野恭敬師を派遣することを紹介。1020日の平和会議in京都・清水寺開催も紹介、釈迦の教えの「兵戈無用」(ひょうがむよう)兵隊も武器もいらないという教えを披露しました




 今年の世界大会の特徴は、被爆者体験の継承と未来のつどいが広島、長崎で開かれたことです。2か所に参加、

4日広島のつどいでは
広島に原爆が落とされた

 矢野美耶古さん(94)が被爆証言しました。私は生まれたとき男の子でなかったので、しばらく名前がつけられなかった。お宮に生まれたのだから美耶古とつけられた。
 1945年、第一高等女学校だった私たちは広島市中心部に動員されていました。8月6日当日、私は腹痛で家におり生き残りました。作業に出ていた1・2年生541人は全滅でした。亡くした親からは「まじめな子は死に、不真面目な子が生き残った」と言われ何度死のうかと思った。
17歳頃からよく倒れるようになり、「寝てばかりの私を、母は「横着者」と言いました。被爆から60年後、米国が被爆者から集めた資料が新兵器開発に使われることに怒り、核兵器廃絶を訴えています。

 本谷量治さん(97)は17歳でした。広島駅近くの鉄道局の印刷工場で働いていました。朝、窓からフラッシュのような光が入り、気がついたら建物の下敷きになっていました。右目と指にけがをしましたが、鉄道病院は崩れて治療どころでありませんでした。
翌日、川には水を求めて入った人が死んで浮かんで流れていました。川岸では遺体を引き揚げ、廃材で死体を焼いていました。姉は口と鼻がただれ、血便が出ていました。毒が回ったんだといわれ17日に死にました。弟は斑点が出て、髪の毛が抜け死んでいった。私の被爆証言は91歳でした。それまでひたすら隠して生きていました。

 朴貞順(パク・ジュンス)さん(90)は、名古屋で生まれ、大阪、広島で育ちました。6日の朝、爆風で崩れた家の下敷きになりました。傷痕が今も頭に残っています。翌年韓国の両親の故郷に渡りましたが、両親は体調が悪く苦しんでいました。3月に死産した母は、被爆者といえば流行病と思われると、私と姉に口外を固く禁じました。朝鮮戦争が始まり父が死に、母も病に長く苦しみ死にました。私は2度も戦争に苦しめられました。日本語しか話せなく、学校でいじめにあいました。核兵器を投下した米国と戦争を始めた日本は韓国の被爆者とその子孫への責任を認め、謝罪すべきと賠償をしなければいけません。

 高東征二さん(84)は、私が「黒い雨」の運動を始めたのは2002年9月のことです。「黒い雨」のことは長く、子や孫に遺伝するなどと言われてタブー視されてきましたが、この問題を放置しておくことはできないとの思いで運動に参加してきました。「黒い雨」被害者を支援する会事務局長を務めています。
 三村正弘さん(79)は生まれた時から被爆者、原爆孤児としての自覚がありましたが、母親が被爆者手帳を持たずに亡くなったので被爆者の認識はありませんでした。原爆胎内被爆者全国連絡会を結成してきました。

7日長崎のつどいでは
長崎を最後の被爆地に

 日本被団協の代表委員の田中熙巳さん(93)が忘れえぬ「あの日」を証言しました。
 1945年8月9日被爆当時、私は13歳でした。自宅の2階の畳で本を読んでいたところ突然あたりが判別できないほど光り、1階にいた母親と2人の妹とともに庭に飛び出しました。その瞬間、爆風で家がつぶれ、吹っ飛んだガラス戸が割れずに私の背中にのしかかり奇跡的に助かりました。母校の小学校は臨時の救護所となり、100人近いけが人が横たわっていました。看護師や医者はいません。4,5人の女性が看護にあたっている様子を30分ほど黙ってみていました。「お母さん、お母さん」と苦しみながら声を上げていた人は相次いで息を引き取り、荼毘に付されました。9月に入って登校した際に同級生は「私ひとりです。家族は、みんな死んでしまいました」と話していました。その時の声は今も忘れません。世界に1万2000発も存在する核兵器は絶対に早くなくさなければいけません。生き残った被爆者は叫び続けてきました。被爆者や国際運動が昨年のノーベル平和賞受賞につながったと思います。核兵器禁止条約に日本政府は署名も批准もしていません。核兵器をつくってはいけないと叫び続けてきました。核兵器の非人道性を世界に広げて核兵器をなくす運動に結集させようと訴えました。

スペインと仏で交流
 日本被団協の代表委員の田中重光さんは スペインとフランスを訪問し、スペインの高校生に父、兄が肝臓がんで亡くなったこと、孫が障害を持って生まれた3日後に亡くなったことなど語り、フランスでは労働組合や国会議員と会談もありましたと報告されました。

被爆者運動の歴史を語る

 長崎の被爆者運動の歴史を映像で振り返り、被爆者らのたたかいが語られました。
渡辺千恵子さん、山口仙二さん、松谷英子さん、谷口稜曄さんのたたかいを映像と声で振り返りました。
 谷口稜曄さんの国連での証言を直接聞くことができた思いが蘇りました。2015年NPT会議の会場で写真を持ち、証言する様子をカメラに撮りました。2017年核兵器禁止条約が7月に採択された年の8月に亡くなりました。その年の世界大会でベッドの上からメッセージを送られたことも思い出しました。

訃報 


 皆様、いかがお過ごしでしょうか。
 この度、樋口重夫 儀、2025年7月10日、75歳で死去しました。生前のご交誼に深謝し謹んでお知らせ致します。
 出会いとご縁の「いのち」の不思議を思います。度重なる入院・手術の人生ではありましたが、善き力に不思議に守られ、皆様の祈り、励ましによってここまで過ごしてくることが出来ました。
 核も戦争もない平和な世界と社会進歩を求めての宗教者平和運動、時間の長短、交わりの濃淡はあれ、諸先達、愛しい人びと、懐かしい皆様との出会いとお交わり、同行に心から感謝致します。
 地上では旅人、また寄留者である自覚のもと、人生を楽しませて頂きました。
 長年のご指導、ご交誼に唯々感謝し、重ねて御礼申し上げます。最後に、皆様のご多幸とご健勝を草葉の陰よりお祈りさせていただきます。

樋口重夫【入院・手術歴】
◼️202571日 三楽病院へ転院
◼️2025610日 東大病院 左転移性肺腫瘍手当不可Dr.岡嶋晃一、Dr.此枝千尋
◇治療によって病気の回復が期待できない状態である
◇心肺停止がさし迫っている状態である
◇心肺蘇生行為を実施しても医学的に治療効果が期待できないDr.安藤稔彦
◼️2025319日 東大病院 「左転移性肺腫瘍 左肺部分切除」 Dr.此枝千尋、Dr.日野春秋、Dr.川島光明
◼️2024724日 東大病院「右背部悪性軟部腫瘍」 Dr.小林 寛 Dr.安藤稔彦 形成外科Dr.宮本慎平
◼️202419日 東大病院
「右背部悪性軟部腫瘍」 Dr.小林 寛
◼️20214-5月 東大病院間質性肺炎など
◼️20209月 東大病院今回、右肺下葉外側
「胸腔鏡下右肺下葉部分 転移性腫瘍切除」 Dr.小林 寛(本人から送らて公開)
◼️20202月 東大病院「右背部悪性軟部腫瘍」、手術 = 広範切除、皮膚再建 Dr.佐藤