日本宗平協【抗議談話】
米国によるイラン核施設に対する無法な攻撃を糾弾し、即時中止を要求します
一、米国トランプ政権は6月21日、イスラエルに加担するなとの米国内外からの攻撃計画の中止を求める声を無視し、イランの三つの主要な核施設に対し、大規模な空爆を行ないイランの主要な核関連施設は「完全に破壊され」ました。
中東地域と世界の平和と安定に深刻な打撃を与え、国連憲章と国際法に明確に違反した今回の無法な攻撃を厳しく糾弾するものです。これ以上の攻撃を直ちに止めるよう、強く求めます
イスラエルによるイラン核施設への無法な先制攻撃に続く今回の攻撃は、中東での軍事対軍事の緊張をエスカレートさせ、紛争の拡大を招く最悪の行為です。アメリカ政府に対して、これ以上の無法行為をただちに中止することを強く求めます。
一、イランの核開発問題は、すでに長期にわたり国際原子力機関(IAEA)や関係各国、アメリカとの間でも協議が続けられていました。今回の攻撃は、それをトランプ政権は乱暴に破壊するものです。核施設への攻撃は、ジュネーブ条約をはじめとする国際法違反の行為であり、周辺住民や国境を越えた地域への核汚染を引き起こしかねなません。核施設への野蛮な攻撃を即刻止めるよう強く求ます。
一、「自衛」と称していようと先制攻撃は国際法違反です。日本政府は、戦争放棄の憲法9条と唯一の戦争被爆国の政府として、アメリカいいなりではなく、普通に国際法違反であるガザに対するジェノサイド・殲滅戦争反対、イランに対する先制攻撃を繰り返すイスラエルに国際法と国連憲章を守らせるために積極的に行動すべきです。
2025年6月23日
日本宗教者平和協議会
事務局長 森 修覚
被爆80年の区切りの年に
「国民平和大行進を始めた西本あつし」を思う
代表理事 小野文珖(群馬県在住・日蓮宗僧侶)
本年4月29日、37歳で不慮の事故で亡くなった(1962年)元僧侶の祥月命日に、群馬県の伊勢崎市の養寿寺にある墓前で、生誕百年祭が執り行われた。原水爆禁止運動に携わっている関係者や知人50人余りが集まり、個人を偲んだ。
その人の名は「西本あつし(敦)」。高知県出身の平和活動家で、1958年、広島・長崎の原水爆禁止運動の平和行進を、全国に呼びかけ、歩き始めた人である。
高知の少年救護院の職員であった彼は、26歳の時、日本山妙法寺(創立者 藤井日達山主)の僧に導かれて出家し、日本山の平和運動に身を投じる。黄色袈裟に太鼓一本を持ち、内灘闘争・妙義闘争・砂川闘争に参加し、デモの先頭に立って、ドンツクドンドンとお題目修行を行なっていた。1957年には、師匠の藤井日達山主の随行で、スリランカ・コロンボの「世界平和評議会」に出席し、帰途、北京に立ち寄り、藤井山主と共に周恩来首相と懇談し、国際的視野から運動を見つめるようになった。
この年の暮れ、僧籍を離れ、還俗し、市民の一人として非暴力平和主義を掲げて、歩き出した。
◇
1958年6月、広島での第四回原水爆禁止世界大会に際し、広島から東京までの平和行進を提唱し、6月20日、たった一人で歩き始めた。その彼の歩みは、東京に着く頃には一万人を越え、出迎えに集まった人々も数万人を越えたと報道にある。ある資料では延参加者数は百万人とも言われている。
平和行進のドキュメンタリー映画『一歩でも二歩でも』の中には、西本あつしのこのような言葉があるという。「人間の叡智が作り出したものが人を殺す核兵器。ならば私は歩くという原始の行為で異を表す」(本庄豊「西本あつし講演資料」)
西本あつしは、第一回のこの平和行進の日記を公表している。一部は雑誌『中央公論』に掲載され、大きな反響があったという。「時の人」となり、戦後の平和運動の旗手として注目され、一方、体制側から狙われることになるのである。20日の出発の日の日記の一節を転記する。
「原爆慰霊碑に立ち、東京までの道を考えた時、不思議と頭に浮かんだことは、その道々の苦しみではなく、必ず歩ける、国中の平和な生活を願うすべての人々が、世界の人々のあたたかい協力があると固く信じることができた。」
(西本あつし『平和行進日記』)
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翌年、第二回の国民平和大行進を、与論島から広島へと決め、全国注視の中、歩き通したが、無理がたたって体調を崩す。知人の医師を頼って群馬県に移住、病院で静養中、共産党に入党する。六〇年安保の真っ最中で、非暴力主義の元僧侶の入党は、当時の共産党にも大きな影響を与えたようだ。
同じ時期に、彼は佐波郡東村の保健婦・鈴木多美江と恋愛し、結婚することになる。しかし、この結婚生活はわずか一年余りで突然終止符を打たれた。講演活動で各地を飛び回っていた、春の夜、轢き逃げに遭い、彼は急逝するのである。
事故から二週間後の5月10日、伊勢崎市に住んでいた自動車修理工が逮捕された。すでに犯行の自動車は解体されていた。飲酒運転ということで、業務上過失致死罪で禁固1年6か月、そのまま服役している。しかし、不可解な点が多々ある。当時の裁判でどこまで追及されたのであろうか。
六〇年安保闘争が空前の規模に高まっていたあの頃、西本あつしはジャーナリストにこのように記録されていた。
「日本山妙法寺の坊さんたちが、あるおばあさんの家の強制測量を阻止しようと、垣根の前に立っていた。僕は警官隊がここを狙っているなと思った。(中略)やっぱり来た。坊さんが警官隊と対峙しているカットは僕が撮影した。坊さんがうちわ太鼓をドンドコやっている。かかれっという命令の次の瞬間、その坊さんたちが殴られて負傷する。この時、カメラにフィルムがなかった。もう一人誰かがカメラを持っていたら撮れていたのに残念だった。翌日、その坊さんが包帯を巻いた姿で大衆の前に立ったときは、日蓮みたいでなかなかいい格好だ。」
(亀井文夫『たたかう映画―ドキュメンタリストの昭和史』」岩波新書)
西本あつしの研究者、本庄豊の著書の帯に、このような言葉が記されてあった。
「はじめにひとりの一歩があった。
非暴力の米軍基地建設反対闘争から平和を築く行進者へ」(本庄豊『西本あつし』)